びん沼物語①

びん沼の生みの親 「治水翁」 斎藤祐美(ゆうび)

  地域を洪水から守る

びん沼は、荒川の河川改修で取り残された旧荒川の一部である。荒川の河川改修は大正期から昭和20年代にかけて、洪水対策として蛇行していた川筋を直線化する形で実施された。そして、その河川改修、治水事業を推進したのは、旧荒川(びん沼)のほとりに実家のあった斎藤祐美(1866-1943)であった。斎藤祐美は、県会議員として荒川の河川改修の合意を取り付け、この大事業を成し遂げた。洪水が日常であったびん沼周辺住民が今平穏な日々を暮せるのは斎藤祐美の功績に負うところが大きい。

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明治43年の大水害を機に進んだ治水事業を県議として主導
斎藤祐美は旧荒川(現在のびん沼)沿いの馬宮村飯田新田(現さいたま市飯田新田)の出身だ。飯田新田は堤防の内側(提外地)に位置し、当時の荒川はすごく蛇行していたので、この地域は洪水に悩まされていた。祐美は、県会議員として地域を洪水から守るため荒川の治水事業を先導する。
斎藤家は地主で、祖父は川越藩の典医も務めた代々医者の家系。祐美も今の東京医科大学の前身で済生会という塾に学んだが、板垣退助の自由民権運動に傾倒し卒業と同時に民権運動の記者になります。ところが洪水で家も流される状況を見て、治水事業を志し、政治家になることを決意。明治32年、県会議員に立候補し当選、それから昭和11年までずっと県議を務める。
明治39年、祐美は議会をリードして国に対して「荒川放水路開削の建議」を行います。当時「議会は全員賛成はしたが、本気になっているのは自分1人だった
と、祐美は後に語っている。「祐美の大風呂敷」などと揶揄されたが、この建議は先見の明があった。明治43年に史上最大と言われるとてつもない大水害がおきます。明治政府はこれに驚き、半年後に荒川放水路開削が国家プロジェクトとして動き出し、大正元年からは荒川放水路建設工事が着工となる。
この時、祐美は埼玉県を代表して折衝にあたり、下流と一緒に上流もやらないとだめだと主張する。それまでは埼玉治水会と東京治水会が別々にあったが、彼が会を統一させ東京埼玉連合治水会を組織して荒川の治水事業を進めていく。そして上流の埼玉県区域は遅れること7年後の大正7年から改修事業が着工となる。これが祐美の最大の功績だ。

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旧荒川の河跡湖、びん沼は祐美の置き土産
祐美の実家のあった飯田新田は、旧荒川の東側に位置したが、新たに東側に直線の川を通したことで、堤防の外(堤内)になり洪水から守られることになった。荒川沿岸の他の地域も、以降洪水はほとんどなくなる。くねくね蛇行していれば、1週間たっても水がひかないが、今の荒川は広く、流れも澱まない。
河川改修で旧荒川が半月湖として残ったのがびん沼だ。新しい荒川とびん沼の間には、飯田新田、塚本町、湯木町が、大宮市(現さいたま市)の飛び地として残ってしまうことになった。

「治水橋」の名は祐美にちなんでつけられる
荒川改修工事は昭和10年頃まで続き、美は昭和11年に県議をやめ18年に死んだ。功績をたたえ、彰功碑が昭和26年に荒川堤防の上に建てられた(その後治水橋が現在の新しい橋に架け替えられる際に移設した)。
大宮(さいたま市)から富士見市、所沢市方面に向かい荒川を渡る治水橋。この橋の名は斎藤祐美にちなんでつけられた。祐美は、自ら「荒川の治水翁だ
と言っていた。治水橋は祐美が企画し昭和9年に建設されたが、最初は「馬宮橋
の予定だったが、祐美の功績をたたえ「治水翁
の名から取った。

祐美の実家は、飯田新田でも最も目立つ高台、「水塚」(みずか)上に建っていた。現在は近くに子孫の方が住まわれている。船渡橋近くのびん沼を望む場所に墓があり、墓石に「大宮市名誉市民」と刻まれている。最近まで毎年12月に有志による墓前祭が行われていた。
祐美はまた、浦和では県議のかたわら「治水庵」と称して医業も営み、駅前にあった伊勢屋爾旅館という旅館の娘をみそめ6人の子を設けた。そして、長男は、蕨市で父の医業を再建します。この医院は現在も開いている。
祐美は、洪水の被害から地域を守った。それをなしうる政治力があった。びん沼は、祐美の置き土産である。びん沼は今釣り人のメッカになっているが、祐美を知る人は非常に少ない。
(金子 豊治郎)

Author: ヒキコマ、ハジマル。