赤尾の地図

地図から始まる謎解き①

「どんな時に地図を見る?」と聞かれたら、私はこう答える。
「ヒマな時」と。地図には地形や道路や鉄道、地名などが記されているだけではない。バス停や交差点、橋などの名称に、ビックリするほどおかしな名前がついていることがあるのだ。そしてそれらの名前にはちゃんとした由来があると思う。だからそれを調べてみたら、きっとおもしろいに違いない。突然、そんな風に思ってしまったのだ。だって、それってパズルみたいじゃない?だったらやってみるしかない。ネ!・・・

バス停

赤尾弾正と赤尾金山
先日坂戸の広報と一緒に届いた坂戸市民バスのルートを見ていると、変わった名称のバス停があるのを見つけた。赤尾弾正・赤尾金山という二つの名称だ。どう考えてもこの名称には、何かいわくがありそうではないか。気になるでしょ。とにかく調べてみなくちゃ。まずは赤尾弾正から。「弾正」というのは、ぜったいに人の名前、それも時代劇だと悪代官とか悪家老とか。・・・

まずは坂戸市について簡単に説明しておかないと。坂戸市は埼玉県の中央部からやや南よりに位置している。かなり昔から人がすんでいたみたい。その証拠に、市内のあちこちで遺跡や古墳がたくさん発掘されている。海も高い山もないから、風光明媚というわけにはいかないけれど、気候も地形も人が暮らすには、ベストだったんだと思う。
中世になると、鎌倉幕府を支えて、全国各地で大活躍した「武蔵武士」と呼ばれる武士団の本拠地でもあったのよね。江戸期になると東部が川越藩領になったほかは、ほとんどが旗本の知行地だったようだ。

今回調べたいと思っている赤尾(当時は赤尾村)は川越藩領だったそうで、弾正という名前から悪家老を連想したけど、川越藩の家老という雰囲気ではないので、時代をもう少しさかのぼることにした。いました。いました。弾正さんが。その人の名は難波田弾正忠正直。関東管領上杉氏の重臣だった人だ。
「太平記」の時代が終わり、その当時は、鎌倉公方を中心にした関東管領上杉氏によって、世情はそこそこに安定していたのだが、享徳の乱(鎌倉府内の内紛)をきっかけに、関東は戦乱の様相となった。その一方で、伊勢新九郎長氏(北条早雲)の伊豆に侵攻により、関東は三つの勢力が争うかたちとなった。まさに関東の戦国時代の幕開けである。
弾正さんはそんな時代を生きていたのだ。その当時、この辺りは弾正さんの所領だったようである。「新編武蔵風土記稿」によると、島田と赤尾の境目辺りに弾正さんの陣屋があったらしく、それで弾正という地名が残ったということなんだけど、それを証明する文書などは残ってなくて、島田1307番地周辺がその遺跡と言われている。遺構らしきものは何も残っていない。ただこの付近には弾正沼、堀の内など中世の館があったと思わせる地名が残ってはいる。ということは弾正という地名は、赤尾ではなくとなりの島田の地名ということ?もう一度調べ直しだ。

見つけた。その地図は、「赤尾の民俗」という本の第5章信仰のところに添付されていた。赤尾の小字・高川原のすぐそばに弾正という小字が記入されていて、島田の方は弾正町と書かれている。坂戸市の「洪水ハザードマップ」にも赤尾弾正集会所と記入されている。ということは、弾正という地名は赤尾の方が日常的に使っているってこと?だからバス停名を赤尾弾正にしたのかしらん?

結局、明確な根拠を導き出すことができなかった。何しろ昔のことだしネ。そういえば、昔の武将はみんなインテリだったみたい。弾正さんもそうだったようで、松山城合戦の折(後北条氏と上杉氏の対決)、敵将の山中主膳と歌を交わしている。戦闘のさなか、なんとも風雅なことである。また、富士見市南畑にある難波田公園は、弾正さんが築城した難波田城の址である。

 

Author: ヒキコマ、ハジマル。