井上浩の聞き書き帳 (1)

地域の歴史と言うには新しい出来事だが、昭和初期の川越地域の様子を伝えてくれる井上浩さんの聞き書き帳は、アーカイブしていくものと感じ、「武蔵野ペン」に掲載されたものを許可を得て転載します。

わが国の農業は1955(昭和30)年頃から激変した。むかしから筋肉労働中心だった農業の機械化が進みだしたからだった。それにつれ、農村の風俗習慣もどんどん変わりだした。
わたしは1931(昭和6)年、埼玉県西部の田舎町、飯能に生まれ、そこで育った。わずかではあるが太平洋戦争前のことを知っている「昭和一桁(ひとけた)」の一人である。それだけに戦後の農村の変化がよくわかる。 1954(昭和29)年、埼玉県の公立高校の社会科教師になった。1962(昭和37)年から川越へ住むことになったのを機に、余暇を川越地方の農村回りに当てるようになった。農家の古老からむかしの暮らしについてのさまざまな話を聞き、書きとどめるためだった。今、だれかがそれをやっておかないと、あとで取り返しのつかないことになりそうに思えたからだった。
そのわたしもいつの間にか八〇過ぎになった。かつてお年寄りの話をせがんだ者が、若い人たちからむかしのことを聞かれる身になってしまった。それでわが聞き書き帳の一部を披露させてもらうことにした。

奥富栄一さんの話―麦めしのことなど
(1986〈昭和61〉夏)
「わたしは明治43年、川越市増形(ますかた)の農家に生まれた。増形の人にただ『奧富』と聞いただけではわからない。『あたらしや』とか『奥富中尉の家』と聞いてもらえばすぐわかる。川越市増形の地図
うちにある一番古い位牌は安永だ。わたしは八代目だが初代のことはよくわからない。なんでも分家して本家の前にでたようだ。だから『あたらしや』になったようだ。 わたしの祖父は天保生まれの吉兵衛(きちべえ)さんだ。同じ村からきて家付きの娘、ますの婿になり、奥富家中興の祖となった。うちには土蔵が二つある。明治7年に建てた古いのと、明治26年に吉兵衛さんが建てた新蔵(しんぐら)だ。新蔵は二階建ての大きな蚕室の一階部分の一部に、すっぽりと納められている。この風変わりな土蔵は坂戸市川角(かわかど)の親類にあった。吉兵衛さんはそれを見て感心した。これはいいものだと。それでそれを真似して作った。
それほど大きい百姓でもなかったうちになんで土蔵が二つもあったのか。吉兵衛さんは働き者だっただけでなく、堅実な人だった。うちの方の田んぼはむかしから二毛作ができた。ここはかつては入間川が乱流していたところで『八瀬(やせ)の里』とも呼ばれていた。それだけに水田の土は浅い。その下は砂利層だ。だから水はけがとてもいいのでイネのあとに大麦・小麦を作ることができた。
またこの辺の農家は『野方(のがた)』と呼んでいる武蔵野台地にも畑を持っていた。そこでも大麦・小麦を作った。サツマやダイコンも作った。サツマは『川越イモ』として売ることができた。ダイコンは自家用の沢庵(たくわん)漬けにした。
戦前の農家は米を作っても、めったにたべなかった。米と麦は売り物だった。常食は大麦の麦めしだった。『七三(ななさん)』といっていた大麦七、米三のうまい麦めしをたべられる家は少なかった。たいていの家は米が一―二割のぼそぼそのまっ黒な麦めしだった。
もっともわたしが入隊した陸軍は別だった。ここも麦めしで『六四(ろくよん)』といっていたが、それは世間の常識の逆だった。麦六、米四ではなく、米六、麦四の夢のようなうまいめしだったのでびっくりした。
農家にとっての大麦はこのように大切なものだったから、吉兵衛さんは用心深く貯えた。新麦がとれるとそのままそっくり土蔵に入れてしまい、次の年の新麦がとれるまでたべさせなかった。それをやるには一年分の余計な大麦を貯える土蔵が要る。だから一つの蔵では足りない。前に話した吉兵衛さんが作った新蔵はそのためのものだった。
むろん古麦より新麦の方がうまいにきまっている。一年前の麦は虫がわいたりしてまずくなっている。それと大麦は軍馬のえさでもあったから、戦争が起こると価格が暴騰した。それでも凶作による飢饉はいつ起こるかわからない。だから大麦は売ってはならないと決めていた。
事実、わたしの生まれた年は『明治43年の大水』の年だった。うちの裏の入間川の堤防が切れ、うちの田んぼも石ころだらけの川原になっちゃった。

わたしは川中(かわちゆう)(旧制の埼玉県立川越中学校)へ入りたくて受験させてもらったが落ちちゃった。田舎の小学校で勉強ができても通じないことがわかり、川越尋常高等小学校の高等科に入った。自転車でそこに通って再挑戦し、こんどは合格した。
それにしてもびっくりしたのは、川中への再受験のために80人もの人が川越の高等科へきていたことだった。上級学校への入学難はむかしもあったんだ。

村の泉福寺の本堂の屋根は茅葺(かやぶ)きだった。戦後しばらくたった頃から雨漏(も)りがひどくなった。茅も茅葺き職人も少なくなっていて、トタン葺きにすることになった。茅葺きよりは安くなったがそれでも大金を用意しなければならなかった。それで寺の世話役の一人だったわたしはこう提案した。
『ここの檀家は野方(のがた)でサツマを作っている。それも戦前とは違い戦後はでん粉ザツマが多い。それを持ち寄り近くのでん粉工場に運ぼう。そこで買ってもらえれば工事費の工面はできる』と。
幸い全員が賛成してくれたので小ヶ谷(おがや)にあったでん粉工場の内田社長のところにお願いにいった。社長はでん粉で成功しただけではない。川越市の教育委員長にもなったほどの人だ。そういうことならと快く承知してくれた。大量のイモを相場より高く買ってくれただけではない、多額の寄付金までだしてくれた。
内田さんは青年時代、陸上競技の長距離の名選手だった。戦前、東京の神宮競技場であった試合にでた。その時泊まった宿でたまたま会った千葉県の人から、こう教わったという。千葉県はわが国のサツマイモでん粉作りの発祥地で、千葉市周辺にでん粉工場がいっぱいある。そのどれもが儲(もう)かっている。
サツマさえあればだれがどこでやってもでん粉作りは成功する。あんたもやってみないかと。それで自宅へ帰るとさっそくでん粉作りを始めたと聞いている。

「武蔵野ペン」153号 より

Author: ヒキコマ、ハジマル。