川越ゆかりの浮世絵師 井上安治(探景)

井上安治(いのうえやすじ、1864~1889)という絵師をご存知だろうか。

よほどの絵画愛好家でもないかぎり、その名を耳にしたこともなければ、その絵を観たこともないかもしれない。ただ、浮世絵(錦絵とも)の世界ではそれなりに名の通った人で、優れた作品を世に残している。惜しむらくは、彼が26歳という若さで他界してしまったことである。浮世絵の歴史は、江戸寛文年間の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)に始まり、明治末から大正初に終わりを迎えるが、井上安治の作画期は明治13年(1880)~明治22年(1889)ごろで、浮世絵終期に当たる。代表作は、葉書サイズの「東京真画名所図解」シリーズ(約160枚)で、「駿河町夜景」など川越市立美術館にも多く収蔵されている。

元治元年(1864)、井上安治は浅草並木町に生まれる。父清七の実家は川越鍛冶町の高麗屋という太物問屋であったが、江戸浅草の丸屋呉服店に見習い奉公としてつとめ、後に一番番頭になっている。安治には姉と弟(米吉)がいた。安治は一時、月岡芳年(つきおかよしとし)に弟子入りするが、そのころのことはよくわかっていない。明治11年(1878)から明治12年(1879)の冬、安治は15歳で小林清親(こばやしきよちか、1847~1915)に弟子入りする。その日は雪が降っていて、清親は綾瀬川の土手でスケッチをしていたという。そこへ安治がやってきて、雪のなか熱心に2時間もそのスケッチの様子を見ていたらしい。安治の師、小林清親の作風は「光線画」と呼ばれるもので、西洋絵画の手法を取り入れた光と影の効果による明暗表現である。安治はこれを17歳で習得し、明治13年(1880)6月12日付で版元松木平吉から「代官町之景」「新吉原夜桜景」(大判錦絵)を版行している。明治15年(1882)の「銀座商店夜景」は、安治光線画の代表作ともいえる。明治17年(1884)には、松木平吉から「探景(たんけい)」の画号をつけてもらい、以後はこれを使用している。その後、版元福田から「東京上野高崎街真景」などの三枚続錦絵を版行するようになる。

明治22年(1889)、安治は父の実家川越高麗屋の親戚「印藤ます」と婚約する。しかし、同年9月14日、脚気衝心のため安治は死去してしまう。最初、浅草の顕美院に葬られたが、甥の代に川越末広町の行伝寺に改葬されている。明治6年(1873)の鍛冶町の地券をみると、現在の一番街の町割に「井上満津(持)」とあり、恐らくここが安治の父の実家があった所だと思われる。法善寺入口から6軒目の区画である。さらにその4軒隣りには「印藤吉五郎(持)」とあるので、ここが安治の婚約者「印藤ます」の実家なのだろう。安治は生涯、浅草で過ごしたらしいが、川越の行伝寺に墓があることからも、故郷といえば父の生家があった川越を思い起こしたのではないだろうか。浅草―川越はそれほど遠くないので、生前安治は何度か川越を訪れていたのかもしれない。安治が川越の風景を描いていたとしたら、いったいどんな光線画だったのだろうか? 現在の一番街は夜間に街灯がともされ、安治の「駿河町夜景」に近いものがある。ともあれ、安治のような川越ゆかりの絵師がいたことを誇りに思う一市民なのである。

(※被葬者畏敬のため、行伝寺の墓所に立ち入って井上安治の墓を探すことはやめてください)

補足:2015年6月11日現在  井上安治の絵が常設展で2点展示されていました。

 

参考文献:
川越市立美術館『近代絵師の光芒 清親と安治』2005年
川越市立博物館『町割から都市計画へ 絵地図でみる川越の都市形成史』1997年、32頁
稲垣進一『図説 浮世絵入門』河出書房親書、1990年
杉浦日向子『YASUJI東京』ちくま文庫、2000年

Author: ヒキコマ、ハジマル。