イモイモン

川越イモの盛衰

川越いもの盛衰

            井上 浩

 江戸時代のサツマイモの多くは、農家の自家用食べ物として作られていた。川越地方のそれも最初はそうだったが、江戸時代後期になって変わった。売るための商品作物になった。江戸に突然現れた焼きいも屋が江戸っ子に受け、繁盛した。それに刺激され、江戸中に焼きいも屋が現れた。


川越いもはその焼きいも用のいもとして発展したもので、産地は武蔵野台地の旧川越藩の村々とそれに隣接する他領の村々だった。今の行政区画でいえば、川越市・所沢市・狭山市・富士見市・ふじみ野市・志木市・新座市・朝霞市そして三芳町にまたがる広大なものだった。
江戸の焼きいも屋は明治になっても衰えなかった。それどころかますます栄え、全盛期に入った。おかげで東京向けの川越いももますます増えた。
1905(明治三八)年12月24日の読売新聞朝刊によると当時一年間に東京に入る産地別サツマイモの量は千葉県60万俵、埼玉県50万俵、本場と称する川越30万俵、神奈川県10万俵(一俵一二貫)。東京市内の焼きいも屋は1300軒とある。いかに大量の川越いもが東京に送られていたかわかろう。
だが、その川越いもも大正期に入るとさまざまな出来事に巻き込まれ、いも畑も減るし、品質も落ちた。
1914(大正三)年から1918(大正七)年にかけて第一次世界大戦による戦争特需でわが国は好景気になった。諸商品の輸出急増が続き、それまでの債務国が債権国になった。
農産品では輸出用生糸が品不足になり、価格が高騰した。それによる養蚕熱が全国的に興り、川越いも産地でもサツマイモ畑を桑畑に変える農家が増えた。だが戦争が終わってしばらくすると生糸の最大輸出先だったアメリカが不景気になり、1929(昭和四)年の株式大暴落となった。それが世界中に波及し、世界大恐慌になった。
むろんわが国もそれに巻き込まれた。農村関係では二大現金収入源だった米とマユの価格が大暴落し、農家の暮らしが立たなくなった。
川越いもの産地は水利に恵まれないところだったから水田がない。売る米を作れないから、代わりにサツマイモを作っていたわけだが、それは大恐慌前の1923(大正十二)年の関東大震災ですでに最大の販売先を失っていた。
震災による東京の被害は甚大だったが復興は早かった。焼きいも屋の多くも焼け跡に店を再建し客のくるのを待った。だが、異変が起こっていた。震災前までにはいくらでもいたお客がまったく寄り付かなくなっていた。
そうなったのは震災の前と後とでは世相がまったく変わってしまったからだった。

江戸時代からずっと続いていたものの多くは古くさい、つまらないものとして捨て去られ、見向きもされなくなった。今まで冬のおやつとして愛され好まれてきた焼きいもも、時代おくれの食べものの一つにされてしまったようだった。
なんでも新しいものしか受け入れてもらえない世の中となっては、焼きいも屋は転業するか廃業するしかなかった。それは川越いもの産地にとっても困ったことになった。マユもサツマイモもだめとなり、それに代わることのできる換金作物探しが始まった。その中で物になったのがニンジン・ゴボウ・大根などの野菜だった。
埼玉県特産課編『埼玉の園芸』(1958)によれば、ニンジンの需要は食生活の変化によって大正時代から急増した。ゴボウは大正の末ごろから関西向けの契約栽培が始まり、めざましい発展をした。きっかけは川越いもの買い付けにきていた京都や大阪の青物問屋が、そこはゴボウにとっても適地であろうと思ったことだった。まず京都の「まるはち」が入間郡農会と契約し、ゴボウの大量購入を開始した。それに大阪の青果市場も同じ契約栽培方式で続いた。これが「入間ゴボウ」の始まりで、1928 (昭和三)の出荷量は早くも京都へ50万貫、大阪へ30万貫となった。
その盛況を見て川越いも産地から新しいゴボウの育種家も現れた。三芳町藤久保の山田一雄(1900~1976)がそれで、詳しいことは『篤農の道―山田一雄小伝』(山田採種場・1990・非売品)にある。
第一次世界大戦の始まった年に地元の高等小学校を卒業した一雄は、すぐ家業の農業についた。したがって青壮年期は関東大震災による川越いもの不振期であり、世界大恐慌による桑畑の消滅期だった。これからは農業を漫然とやっていてはだめだと思った一雄は、新興の野菜、とりわけゴボウの改良に目を向けた。
当時のゴボウは長大な「滝野川ゴボウ」だった。品質はいいが、手掘り時代の掘り取り作業はとても苦しいものだった。それでその短根化を図った。次に販売期間を長くするために早生種の育種を図っている。それが「入間ゴボウ」の発展にとって大きな力になった。
大根では、川越の西町にちなむ「西町大根」が発展した。大根と言えば「練馬大根」が有名だが、これは沢(たく)庵(あん)漬(づけ)に向いていた。「西町大根」の長所は漬物だけでなく、煮物にも向いていたところがあった。
こうして野菜畑が増えたが、その跡にはどうしてもチッソ肥料が残った。それがサツマイモの品質を落とした。当時の川越いもは「金(きん)時(とき)」とも呼ばれた「紅(べに)赤(あか)」で、チッソに特別敏感だった。だから少しでもそれが多過ぎると茎や葉はよく茂るが、かんじんのいもはろくにできないし、いくらかできたとしても水っぽい、まずいいもになった。農家はそれを「つるぼけ」といって恐れた。サツマイモ問屋はそういういもは買ってくれないからだ。わたしは東京都台東区駒形二丁目のサツマイモ問屋「川(かわ)小(こ)商店」の二代目、斉藤直衛社長からこんな話を聞いている。

「いいサツマイモかい? 蒸したり、焼いいたりしてみればすぐわかる。ポクポクになるものならいい。やわらかくなりすぎるもの、水っぽいものはだめだ。
川越いもがだめになったのは野菜を作った畑でサツマも作るようになってからだ。畑の小さい農家がサツマも作ろうとすればそうなってしまう。逆に畑の大きい農家は手間ひまのかかる野菜には手を出せない。むかしからの麦類とサツマの輪作を続けるしかない。そういう家のサツマなら当時でもよかったよ」 (1986・8・31)      井上浩

Author: ヒキコマ、ハジマル。